からし
つらいときにつらいといったことがなかった(気がする)
毎日毎日、つらいときがくるわけではないから自分が「つらい」と言えないことに気付けなかった。
みえる化は酷だ。
つらいときに「つらい」と言えないこの環境が、つらい。
でも、結局それは自分のせい、なんだよね。なお、つらいわー。
つらいつらいつらいつらいつらいつらい。
って思って、飛び降りようとか飛び出そうとかよくないことを考えていた。
だけど「つらい」をバネにしてここまできたんだなあということに気づき、どんだけポジティブやねんとツッコミつつ、もう少し生きながらえようと思いましたまる
エアミラタ
いましかない瞬間だとか、逆にいまはそのときじゃないだとか、まあよくある。
だけど、今日というか今回は、いまじゃないけどいましかないという一見相反するような状況だった。
本当に、いまじゃない。
だけど、いま以外はもう、ない。
残念でした、って言葉で片付けられない程度にはちゃんとしたモノだったようで。なんとも言い表せないこの気持ち。
いましかない、いまじゃないとか言ったって結局今は今しかないから、後悔の無い選択肢を、したい。
最近、価値観違い、みたいなものに直面することが多い。私としては、多少の代償はあってもおもしろいならいっか!とオモシロイにつられてしまう。だけど、それって少し変で、普通じゃないらしい。
アタリマエの世界では、オモシロイだけではいけない、と。
そりゃ、各々背負うモノはあるんだろうがオモシロイのかな。でもオモシロイ世界を知らない人にオモシロイを語ってもわからないんだろう。だから、せっかくオモシロイ選択肢をあげてもアタリマエを優先されてしまう。がっかりというよりも、さみしいんだなあ。
ことあるごとに「いまはいましかない」と言って、オモシロイ世界へ誘導してるつもりなんだがなかなかアタリマエから抜け出そうとするツワモノはいない。やっぱりアタリマエは楽だから?予測可能で想定外が(あまり)ないから、あたまを使わなくても生きていけるから?(言い過ぎかも)
だとしても私は楽でたいくつな毎日よりも、いばらの道でわくわくする毎日を選びたい。
これから歳を重ねていくうちに、どんどんアタリマエ世界に固執していく(せざるおえない)人が増えていくんだろう。それでも私は頑なにオモシロイ世界でオモシロイ人でありたい。そんなことをいっているから、私はこどくでさみしい、らしい。
うーん。さみしいのはいやだなあ。
なつかぜ
タイトル通り、風邪引きました。
おかげで馬鹿じゃないことを証明できた。よし。
しかし、つらい。つらすぎる。
そのせいか、文章にまとめようとしたことの内容をいくつか忘れた気がする(これすらも曖昧)
ことばがまとまらない。
ぐちゃぐちゃしてる。
強がりな自分に「ほんとうは強くなんかないんだよ君は。」って言いたくて、強くない部分を言語化してあげたい。人よりも臆病なところとか寂しがりやなところとか。
でも、これがなかなか難しい。頭ではわかっているのに、いざ文章にしようとすると文章にならない。懐柔しようとする自分と、それに抵抗する自分でもいるのだろうか。
このまま強がっていたら将来の自分が泣いてそうで。
ワンルームの部屋でクッション抱えて「さみしいよお」って。
将来の自分がだれかと笑っていてほしいから、強がりすぎる自分を変えないといけない。それって、すっごい勇気のいることで、難しい。
でも、このままだったらダメだって直感がいってくるから、なんとかしよう。
脱スナオジャナーイ。
大きな鯛
ねむたい。もう、ねたい。
やることは山積みで、文章書くの得意じゃないのにこれからマジメナコトを2000字書かないといけない。ホームページもなんちゃって報告書も作らなきゃ。
忙しいなんて言いたくないから、言わない。
なんでこんなにだめだめなんだろうなあ。きっとそれは寝過ぎが敗因。考えることが多くて、そのせいでみじめになって、かなしくなるから、なーんも考えたくなくて。そして、必殺寝る。
寝てれば基本的にふわふわしてるし、ときどき嬉しい夢見るし、しあわせ。(現実逃避)よくないなあ、とは分かってはいるけど怠惰な自分はなかなか手強い。
しかし、なんとかしないといけない問題である。
大体、問題アリ→逃げたい→寝る→できない ってなってるわけだから、問題くんをさっさと倒せばいい、はず。頭では分かるのになあ。できないんだなあ。ほー。
とりあえず、こころのもやっとくん(現実逃避の親玉)にでていってもらうべく、問題というか人と向き合おう。よし。
ろくがつ
たくさんの同じ時間を共有した友人が巣立った。
嬉しいような、さみしい、この気持ちはなんなんだろう。保育園のお迎え待ちで、次々とおともだちのお迎えがきてバイバイして、ひとり残されてたときの気持ちに近い気がするなあ。ついさっきまで、仲良く遊んでいたのにお迎えが来たとたん、ママに意識が行ってなくて、こちらには見向きもしない感じ。
すっごいさみしい、らしい。
遊び相手がいなくなったからかもしれないし、その子の目には私が映らなくなるからかもしれないし、自分は相変わらずひとりぼっちだからかもしれない。
反面うれしいものはうれしくて。心からしあわせになってほしいと思う。
これからこういう気持ちに襲われるのか。せつなくって耐えられないかもしれない。
もうすこし、まるくなろう。
せつないくん
夜になると、というか寝ようとすると「せつないくん」がやってくる。ほぼ毎日ののようにやってくるもんだから、夢の世界にいく15分とか30分とか長くて2時間くらい「せつないくん」に付き合う。原因はたぶんあれなのかなあくらいの温度で想像は付いているんだけど、どうも対処法がわからない。どこかで読んだ文章で、寂しさとは一生もんの付き合いだから、人やモノを使ってどうこうするもんじゃない、自分でなんとかしろ、みたいなことをいってたなあ。きっとそれと一緒で自分ひとりでどうにかしなきゃいけない、らしい。当分の間はこの「せつないくん」と仲良く夜を過ごすしかなさそうだ。
「せつないくん」はべつに「せつないちゃん」でも「せつないさん」でもいいんだけど、天使って男の子じゃないですか。そんなテキトーなイメージで「せつないくん」でした。そんなどうでもいい話。
くものいと
2016年はやばい。
直感的だけどなにかありそう。
とりあえず、2016年は私の人生を左右するようなターニングポイントな気がする。ひとつひとつの選択が道になる、みたいな。既に、ひとつ大きな決断というか分かれ目みたいなものは体験した。満足のいく選択ではなかったけど、普通に生きて生活しているし、おもしろいことをやるきっかけにもなったし、まあ、たのしい。高校の先生が「前を向いたほうに道がある」とよく言っていたのを思い出した。それと同時に大好きな先生が口癖のように言っていた「後悔のない人生を」という言葉も思い出す。
人のことならよく見えるのに、いざ自分のことになるとなにが最適なのか無謀なのかわからない。客観視はできるほうだとは思うが、なぜか、できない。むつかしい。
だから、どの選択肢が一番良いのかわからないのだ。
でも、みんなそうなんだろうなあ。最期のときになって、反省会して、「あれやっておけばよかった」「あんなことしなきゃよかった」って言うんだきっと。そのとき、後悔ばっかしてたらいやだな。見尽くして、食べ尽くして、読み尽くして、ぽっくりいきたい。だから、当たって砕けろ精神でいろんなことをやるの。パラグライダーも登山もおみせも。たとえ大怪我しようと生きてたらなんとかなるし、きっと誰かが叱って助けてくれる。そこはお互い様の関係で。相手がいけないことしたら叱るし、困ってたら助ける。だから、困った時はよろしくね、みたいな。そういうことができる人間関係をずっと築いていきたいものです。そのためには、やっぱり「いい」人でありたいし、おもしろい人でありたい。だからそうなるための選択肢を選ぶんだろう。それがどんな難路であっても。
ひとつひとつは突拍子もないことのように思えても、そのうちきっと一本の糸で繋がる日が来ると信じて。