じっかん
時間。
24時間1440分86400秒。
今も昔も、これからもこの基準は変わることはない。一応、ひとりひとりの時間は同じことになってる。5歳児も18歳の女子高生も42歳の部長も90歳のおばあちゃんも、みんな同じ時間を持つ、らしい。
でも、本当に同じなのかなあ。
5歳児と90歳のおばあちゃんの時間はきっと違う。おばあちゃんにとっての24時間は5歳児にとっての10日分だったりして。
よくよく考えれば、おばあちゃんの1年は90回あったうちの1年だけど5歳児にとっての1年はたった5回のうちの1年。質が違うに決まってる。
大人の「ちょっと待って」が長かったのはきっと、このせい。
「まだ〜?」と言ってしまうのは待てないからじゃない。
日に日に時間が短くなるのが恐ろしい。ジャネーの法則曰く、20歳で人生の体感時間の半分、らしい。
そんなに一生が早いのか。
嬉しいようで、寂しいようで、ちょっといや。
別れたら次はない、と思っていないと今を軽んじてしまいそう。気をつけましょう。
言の葉
深みのあるにんげんになりたければ語彙力を増やしなさい。
そんなことを言われた気がした。きっと違う意味だったのだろうが、なぜかそう捉えてしまった。
最近、以前よりも増してグローバルグローバルと呪文のように耳にします。英語が話せることがそんなに大切なんでしょうか。母語の授業を減らしてまで、話さないといけないのでしょうか。
母校の英語贔屓が素晴らしい。
日本語が理解できない人に英語を教育しても、求められてる英語は会得できるのか疑問です。
うつわがなければ水は溢れてしまうのに。ただ、話せるだけではなくて、文化を伝えられるような人材育成と謳っているのに矛盾に気づかないんでしょうか。
なにか、違和感を感じます。
気づいたことには手遅れになっていませんように。
てんとうむし
食品添加物の恐ろしさを知らずに、コンビニ弁当をおいしいと食べれることの幸せさ。あんな恐ろしい弁当なんかを…と人はいうのだろうけど、そんな「あんな弁当」に幸福を感じられる素朴さ、というかつつましさ。
このご時世に、無添加を求める方がむつかしいのでは。無添加は高いし。
そりゃ、お金持ちには関係のないことなんでしょう。
でも、余裕のない人にとっては手を出しにくい。だけど、添加物は体に良くない。食べたくない。でも、それしか、ない。
口に運んだ添加物が、食道を通って、吸収されて、自分の一部になる。ああガンになるかもしれない。ああガンになったら、このせいだ。ああおいしくない。そんなことを考えてたら、たとえおいしくてもおいしくない。たのしくない。
食は文化で、エンターテイメント。
楽しまなくちゃ、意味がない。
■
まいにちこうしん
します
まずはおためしにしゅうかん
にんじんごぼうれんこん
「友達」とは、なにか。
高1か高2かわすれたけど(たぶん高2)、その時に自分の中でみつけた答えはこう。
いま、自分が友達だと思ってるのは友達ではない。友達候補だ。友達とは、5年後10年後会ったときに、昨日のように話せる人である。であるから、いま、所属してる集団からつぎの集団に移動して 友達かどうかわかる。 みたいな。
といったら、否定されたこともあったけど今まで結構納得してきた。
んで、友達ってなんだろうと思う。受験まで29日の高3の冬。イン、コメダ珈琲店。
「今日から友達だね」とか「友達になってくれますか」というのに、ものすごく違和感を感じる。気づいたら仲良くなって、意識をせずとも話してるわけだから 「友達を作る」というのは、なんなんだろう。見知らぬ他人→「友達」になるために作業かなにかあるのか。というか、その「友達」は私にとって友達ではないように思える。たぶん、「友達」は知り合いだろう。私の友達の基準は、見知らぬ他人→顔見知り→知り合い→仲のいい人→友達なんだろうなあ。だから、「友達(と言われてるもの)」に友達というのに抵抗があるのだと思う。
まあ、何が言いたいって私には友達は多くはないってこと。だけど、その人たちは私に多くのものを与えてくるし、私も与えてると思いたい。
だからこそ、私は友達を大切にしたいし、そういう友達とは何年後あってもすぐに「あの頃と変わらない」空間を作れるんだろうなあと思う。
こんなものをみつけた!
受験生の12月から1月までのたった2ヶ月だけど、スマホで日記のようなものを書いてて量はないけど、読み返したら結構面白いものが多い。これはそのひとつ。
受験の内容が多いと思っていたら、意外や意外、「違和感」についてが多くて、いい。年を重ねるたびにそういう「違和感」にしょうがないの蓋をして、なかったことのようにするのが「大人」なんじゃないかと最近思う。とても違和感。かといって、それを否定できない。友達とお話をしないで勉強するのも「しょうがない」。だって、いい大学にはいるためだから。髪の毛を黒くしてリクルートスーツ着て台本を読み上げるのも「しょうがない」。だって、就職しないといけないから。音楽活動をやめて満員電車に揺られて毎日を過ごすのも「しょうがない」。だって、生活するにはお金が必要だから。
すべてを「しょうがない」で済ませたらシアワセに違いない。
そんなことを書いていた気がすると思って探してみた。
「しょうがない」で思考停止
なんとかしようとしない
なんかなあ
20160125
たった3行にドキッと。
考えることをやめたら、にんげんじゃない。きっと。
従順すぎるのは罪。
すももももももものうち
オトモダチ ガ デキマセン。
きっと、普通に考えればゆゆしき事態なんだろうなあ。
独りはいやだけど、1人は苦じゃない。たぶん。確かに、さみしー!と思わないわけではないけど、読書できるし、悪くない。
と、友人にいったら「強がってないでささっと友達を作れ」と怒られてしまった。そういうこと言ってくれる人がいるだけで、もう十分なのになあ。
オトモダチって、無理につくるものじゃないと思うのですよ。つくりすぎたら、時間も、コストも、いろいろかかってたいへんじゃないですか。ひとりでいる時間を消費するための、オトモダチはいらないです。代わりに本読みます。そっちのほうが楽しいし、もっとおもしろいにんげんになれる気がする。その分の時間は、たいせつな人やおもしろいと思ってくれる人やおもしろい人との時間につぎ込みたい。だって、当たり前に時間は有限ですから。根も葉もない噂話やしょーもない悪口やらに付き合えるほど長生きではないのです。
こんなことばっか考えているから、だめなんだろうな。自分をだめだとは思ってないけど。とは言っても、周りを心配させてしまうのはなんとなくしのびない、かも。
結局のところ、オトモダチを作る気はありません。
けど、お友達は作る気あります。
100人と噂話するより、5人と50年たわいない話をしたい。