にしきごいと金平糖

ゆるーくばれないように

忘却


人は脳と心臓と目で覚えるらしい。

他の臓器には記憶する機能ないらしい。

人間って面白いね。

メモリーチップみたいに脳や心臓や目の情報が解読できて、みれたらいいのになあ思うけど、みたくないものもあるはず。

ミロのヴィーナスのように不完全だからこそ宿る美しさがあると信じている。何事も完全には知りえない、見えないものを自分なりの美意識で補うからこそ、そこには各々の美しいが生まれるんじゃないかなあ。

だから、なんでも知りたい見たい聞きたいはときに、なにかを壊してしまう。ほどほどの距離感や温度が大切。きっと。

これから先技術が発展して、記憶が言語化ないし映像化されることがあったら、それにより何かが壊れる危険性が生まれちゃう。

信頼や愛や希望や、まあ、いろいろ。

いま持っているもので満足できたら幸せなのになあ、みんな。

コーヒーとトウガラシ


わたあめも金平糖も甘い。

甘いものはおいしい。すきだ。

コーヒーは苦い。

苦いのにおいしい。すきだ。

そりゃ、甘いものはおいしい。甘いんだもの。でも、全部が全部甘くっておいしい、なんてわけじゃない。なんなら、世の中の甘いものって一握りしかないのではないかな。その一握りの甘さだけを、好んで、縋るのもいいけれど、苦みをおいしいって思えたら、なんか幸せそう。

苦みだけじゃない、辛いも、すっぱいも、おいしいって思えたら世の中はおいしいものだらけになる。

結局、考え方次第。

苦いをおいしいと思うか苦いと思うか。前者ができる人はなんでも楽しめる人。

私は、そんな人になりたい。

ともしび



名前を考えている。

箱に入っている金平糖がきらきらして、可愛くって、あまくって、おいしいから、金平糖は好き。もちろん、大きい金平糖も好きだけど、小さい金平糖は愛らしさがあってたまらない。 

とにかく、金平糖は好物。最近食べてないけど。だから、金平糖の箱みたいにきらきらとおいしさが詰まった日記になればいいなあ、なんて考えて金平糖と命名。これが、まあ、よくある、感じの名前で。検索しても、一番上に出てこないの。それじゃあ、なんかなあ、ってことでひと工夫を、加えたい。そんなわけで、考え中。しっくりくるのがあればいいな。

なんで、そこまで一番上にくることにこだわるのかというと、やっぱり誰かに見てもらいたいわけで。かといって、あからさまにURLは貼りたくはない。折角作った場所だから土足厳禁。そうなると、わかる人がわかる形にしたい。

なんて、難しいんだー。とは思いつつも、考えるのは楽しいから楽しい。

朱い路に鳥がいる



時間ってものを考えることが多々ある。

前もそんなことを考えた気がするが、今日も考える。

最近常々思うのだが、おなじ時間はない。年齢の違いはもちろん、その人の多忙具合や環境によって1時間が3時間に思えたり、10分に思えるらしいのだ。

とある彼女さんが寂しいなあとたった1日会わなかっただけなのに、彼氏さんを恋しがったとする。でも、その彼女さんにとってのその1日は3日のように長かったのだ。だとしても、彼氏さんも彼女同様会えなかった1日が3日のようには感じた、わけではない。

至極当たり前のことなんだろうが、さみしいものだなあとふと思った。時間の共有は難しいらしい。結局のところ、最期まで人間はひとりぼっちなんだろうか。

山の中で

本当に人間やめたいって思ったら、ゆっくり時間をかけて社会から距離を置きたい。所属する集団からも、友だちからも、SNSからも。誰にもばれないように。音を立てず、身を隠す。

3ヶ月後か1年後か、はたまた10年後か。ある日、だれかがみかけないねって気に留めてくれて探してくれたら嬉しいな。そして、ヘンゼルとグレーテルみたいに小石の目印をつけておくから、たどってほしい。最後のところにきっといるから。

間に合わなくても、辿り着けた人に全財産を相続する。ありがとうって。

そんな恩田陸にありそうな終り方も悪くない。

牛歩



ちょうど前回のもので、食べることと作ることが好きだ、と書いたと思います。

他にはひとに何かを伝えるのが好き、みたいです。伝えると言っても、言葉を口にして伝えるのはあんまり得意としません。特に、顔を見て、なんて難易度高いです。単に恥ずかしいからという理由なのですが。というと、無口なのか、と思われるかもしれません。が、大変おしゃべりです。話すのは好きですし、聞くのもすきです。

ただ、「伝える」のと「話す」はわたしの中では少し意味合いが異なるのです。辞書的意味はどうだか知りません。前者には、想いや考えが乗っています。後者は、普通の会話を想像していただきたいです。

前者はある人にすきと言うことに近いです。後者は昨日の晩ごはんを話します。そんな感じです。

ここでは、普段あったこと、というよりもふと思いついたことをぽつりぽつり記録を兼ねて書いていこうと思います。


さて、なぜまた突然、ブログのようなものを始めたのか。

その前に、いまのところ誰か読者なるものを意識してかいてません。(これは別) どこにもここのURLを貼っていなくとも、もしかしたら誰かの目に留まるといいな、くらいの温度で更新しています。そして、興味を持ってもらえたら、この上なく嬉しいですね。

で、本題に戻ります。

純粋に、さみしいんですね。わたしは。

こういうこと考えているんです、って誰かに知ってもらいたいんでしょうね。これがはてなブログを始めた根本的理由だと推測してます。一応、建前的な理由はツイッター依存を断ち切るため、です。まとまりのない心の声をぽろぽろ垂れ流しにしていることをどうにかしたくて。

未知を提供したい、だとか、誰かのためになることを提供したい、なんて素敵な理由があれば良いのですけど、いまの自分には難しいようです。結果として、だれかのためになれれば嬉しいとは思いますが。

歯車になりたいものです。



ずいぶん長くなりましたけど、ここまでお付き合い頂き有難うございます。大変な物好きな方だと思われます。

そんな物好きさんを魅了できるような、中毒性を追求していきたいと思います。

では。

ごはんつぶ

食べるのも大好きですけど、作るのも大好きなんですね。

作るからにはおいしいものを作ってあげたい。もちろん、食べてもらう人(自分)のためにも、なにより食材さんのためにも。

 

誰かの一部になるものを作るって責任重大じゃないですか。

どうせ作るなら、思い出になってほしいのです。きっと、味は忘れられてしまうけど、「あのときのあれ美味しかった」ってどこかで覚えられていたい。

味の言語化はきっとできないから、忘れられてもしょうがないんだけど、いつか他の人のを食べたときに「どこかで食べた味だ」ってひっかかりになれば、うれしい。

それで、うーんうーんって考えて考えて考えて、ほとんどの人は誰の料理って思い出せないんだろうけど、ひとりくらい「あ!」っと思い出してほしい。

 

どんなにすばらしい料理人さんでも死んでしまったら、作るのをやめたら、歴史にすら残らないとおもうとかなしい。小説家は死のうがなんだろうが、燃やされない限り作品として後世に残るのに。100年後も、すばらしい作品だと賞賛されるのに。

けど、料理は100年後に賞賛はされない。絶対。

レシピ本があるじゃないか、と思うかもしれないけど、それはきっと別の作品。

その料理人さんの手が、味覚が、器具が、空気が、思いが、最高の一皿を作り上げるのだから、別の人が作ったものは同じではない、はず。

ああなんてかなしいことだろうと思う。

でも、目の前の人にしか、振る舞えないからこそ、その一皿を目で、舌で、記憶で、味わってもらいたい。

そのための工夫は惜しまない。

 

そんなことを考えていたらお腹がすいてしまった!なにをたべよう!